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第2回「ヘルプミ〜!」 前編

私が初めてヌサドゥアにある物凄いライトハンドのリーフブレイクについて耳にしたのは、1975年、最初のバリ旅行から家へ帰る飛行機の中だった。その前の1週間、何も知らない私がクタの淀んだオンショアでもがいている間、ヌサドゥアには8フィートもの波がたち、水面は鏡の様でしかも人がいないとのこと。帰路の飛行機の中、私は馬鹿になったような気分で、大きなしくじりをやらかしたことを痛感していた。

次のバリ旅行は1977年1月、私はこの旅で、伝説の長くパワフルなライトハンダーを調べると決心していた。もっとも最初の1週間、私はクタの沖合いにいた。クタ沖の素晴らしいクタ・リーフに挑む前にレギャンのビーチブレイクでウォームアップをした上でだ。クタ・リーフでサーフィン中に一度、単独で6フィートを超える波を得た。トップ・トゥ・ボトムのリーフの波のパワーと厚さはまだ怖かったが、私は、ウルワツに挑戦する準備がもう出来たと感じていた。 翌朝、風はオンショアに切り替わった…

私は100ccのバイクに飛び乗ってヌサドゥアを目指した。華やかな観光産業が台頭する前のことだったから、古い道路はとんでもなくデコボコでセカンドギアしか使えず、片道に1時間もかかった。泥だらけのぬかるみにはまる度にサーフボードのキャリーケースのストラップが肩に食い込み、建設資材を積んだ大型トラックが私の顔に泥と石を吹き付けて轟音と共に通り過ぎていく。しかし、私はひたすらパーフェクトで混雑とは無縁のライトハンドを思って辛抱強く走り続けた。ヌサ・ドゥアの波はときおりとても大きく、いつも厚くてパワフルだという内緒の話はすでに仕入れていた。私はまさに今日、それに挑戦する準備ができたと感じていたのだ。

1977年当時のヌサドゥア村は、泥だらけの道沿いに竹で出来た家が並んでいるだけの小さな集落だった。片言の英語が話せる人を見つけるまで、私は2回道に迷った。地元のバリ人にとって、サーファーがやって来るというのはまだ珍しいことだったようで、少なくとも100人以上の小学生たちが道沿いに並んで、バイクで走り過ぎる私に向かって手を振ったり笑いかけたりしてくれた。私も道路に空いた穴を避けつつ、さらにサーフボードが車の往来に煽られて飛んでいかないよう気を配りながら、手を振り返した。「ハロー、ミスター」 彼らの英語はその程度だった。彼らの笑顔を見て、ちょっと止まって話ができたらいいのに、という気持ちになったのだが、私はインドネシア語 ができなかったし、待望の波は丁度その角の辺にあった。その通りは何年も後になって、サーファーの間で「ハロー通り」としてよく知られることとなった。

やっとの思いでビーチに着いた私が目にしたのは、一面に広がるラグーンと、遠く沖合いのリーフで砕け散る波だった。そのリーフまでは近く見積もっても500mはあり、私が今まで見た中で一番岸から遠いリーフに思えた。ビーチにはマデという名のバリ人の男がいた。後に彼とはとても親しくなり、とてもいい友達同士になるのだが、このときが初対面、マデは微笑みながら、初めて見る外国人サーファーを砂の上の小さな彼のワルンへ招き入れた。それはバリの右岸がほんの数カ月間だけオフショアになる雨季のサーフシーズン始めのことだった。

「ハロー、ここはヌサドゥアかい?」私は本物の変人のような調子だったに違いない。
「イエス、ここヌサドゥア、波とても大きくない、今日」少なくともマデは何とか英語が話せた。

「君はどこでサーフィンするんだい?」私は彼が、岸から近くて比較的簡単なリーフポイントを教えてくれるだろうと期待していたが、彼は湾の外のリーフでも一番遠いあたりのブレイクを指差しただけだった。

そんな遠くまで行くことを思ったら、心臓がドキドキし始めた。
「あそこに誰か人はいるのかい?」

「いない、今日波小さい。たぶん明日大きい」

私の目には波はそんなに小さいようには見えなかった。たぶん1本ソリッドで4?6フィートはある…が、あまりにも遠すぎてはっきりと見極めることはできない。私は友達から、砂浜の端っこ、崖の上の寺院の下へ歩いていくよう教えられていた。崖の向こうからならパドリングがしやすいらしいのだ。私はマデのワルンに荷物を預け、バイバイと手を振ると、人気のない熱い砂漠のような砂浜をトボトボと歩き始めた。沖のリーフで私を待ち受けているのが何か分らないまま。

一歩踏み出すたびに、くるぶしまでサラサラのサンゴ砂に埋もれてしまうのには参った。まるで流砂の上を歩こうとしているようだ。崖までの300mを歩くのに、蒸し暑い中20分以上もかかってしまった。崖に近付くにつれて、波はさらに大きさを増して見え、リーフに当たって爆発するようなブレイクの威力を目にしたとたん、私は口の中がカラカラに乾いたように感じた。『無謀にもたったひとりでアウトサイドのリーフブレイクでサーフィンするっていうのか?』。それでも私はまだ、命取りになると警告された海ヘビの群れは見ていなかった。

波打ち際でさんざんぐずぐず考えたあげく、300mほどパドリングしてラグーンを渡り、とりあえず近付いて波を見てみることにした。それで安全かそうでないかを判断すればいいのだ。人知れぬサンゴ礁でひとりでサーフィンして事故死するくらいだったら、ヒーローになる必要など全くない。いつでも引き返せる、私はそう思っていた…

ブレイクした波の泡がラグーンの中に戻って来るところまでパドリングした時、すでに腕が痛くなっていた。私はボードに座ってひと休みしながら、波の切れ目を探した。すでに聞かされていたように左手に奥へ入り込める水路が見つかった。行ってみるかどうか最終決断をする前に、私はよく見てから危険かどうか考えることにした。暑い砂浜に沿って苦労して歩き、パドリングでラグーンを横断してきて、すでに体力の半分は使い果たしていた。背を向けて戻ることさえもかなわなかった。言うまでもない、私は波に捕まってしまったのだ。

波頭は軽く8フィートを越えているように思え、しかもどの波も1、2本間隔で来るように見えた。足の下は鋭く尖ったサンゴの浅瀬だ。安全な地上から遠く離れ、私はとても心細くなった。私は一体ここで何をしていたんだ?こんなリスクを負う必要が本当にあったのか?砂浜にはまったくひと気がなく、遠く波しぶきの向こう側を数人のバリ人漁師がアウトリガーのボートで通り過ぎていくだけだった。私はこのあたりが世界で最も深い海域のひとつロンボク海峡の一部で、海流が強くしかも岸から沖へ流れていることを知っていた…。サメ、海ヘビ、サンゴの切り傷、海流の変り目などが頭をよぎり始めた。遠く離れた砂浜を振り返った私は、当時火山活動中だったアグン山の不穏な光景に度胆を抜かれ、今度は火山の爆発、地震、津波の心配を始めた。

私のような経験の浅いサーファーにとってはあまりにも危険な行為だったと痛感し始めたそのとき突然、私は自分が波の切れ目に沿って吸い出されていて、今見ているのは波の側面だということに気が付いた。また沖に向かってまっすぐ引き戻される!パニックで頭はくらくらだ。運良く波が小ぶりになった。私は、次の大きなセットがやって来て私を巻き込む前、今ただちにブレイクの外にパドリングで出る以外に残された方法はないと悟った。

 
第2回 「ヘルプミ〜!」 前編 終了(2006年02月公開)
 
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 ピーター・ニーリー(Peter Neely) プロフィール
1975年以来30年もの間、バリ島およびインドネシア内各地でサーフィンを楽しんでいる現役オーストラリア人サーファー。バリ島を中心としたインドネシアのサーフィン界の活性化に役立ちたいと1992年に「インドネシアサーフ&ランゲージ」を発行。以来、日本語版は毎年、英語版は半年に1度更新中。( ピーター・ニーリー氏の独占インタビューはこちら
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